おせちの断絶 ― 伝統という名の「愛」が消えてまう!

 

スマホをポチっで名店のおせちが届くけど、何かが足らん!

いま、世の中には便利なもんが溢れかえっとる。スマホひとつでポチっと注文したら、大晦日にデパートや名店の豪華なパックおせちが届く。これが「今の正解」なんかもしれん。

でもな、80代最後を迎えようとしとるワタシから言わせれば、そんなもんは情緒もへったくれもあらへん。綺麗に並んだプラスチックの仕切りの向こうで、パックのおせちが「ワタシら、何のためにここにおるん?」って泣いとるのが聞こえてきそうや。

 

一つ一つの具材に宿る「願い」を知っとるか?

おせち料理ちゅうのは、ただの「おかずの詰め合わせ」やない。あれは、家族の幸せを願う**「祈りの結晶」**なんや。

例えば、あの「ごまめ」。別名「田作り」やな。 ワタシが小学生の頃、不思議に思って聞いたことがある。昔は田畑の肥料にカタクチイワシの稚魚(ごまめ)を使っとったんやてな。

それを撒いたら大豊作になった。せやから、新しい年も豊作でありますように、食べるもんが困りませんようにと願って「田を作る=田作り」と呼ぶようになったんや。


「ごまめ」を炒りながら「なんで田作り言うんか」ばあちゃんが教えてくれたんや。

黒豆は「まめに(健康に)働けますように」。数の子は「子孫が繁栄しますように」。 そんな意味を噛み締めながら、一品ずつ箸を運ぶ。それが日本の正月の「深み」やったはずや。

 

「手間」を捨てた先に残るもんは何や?

今の若い人らは、その大切な意味も、家庭ごとの「おふくろの味」も忘れかけてるんとちゃうか。 「時間がない」「作るのがしんどい」……。

確かに、家内やワタシらの母、祖母たちが、年末に何日も台所に立ち続けておせちを詰めるのは、並大抵の苦労やなかった。

でもな、たとえ形が不格好でも、味がちょっと濃すぎても、そこに**「家族のために」という手間を惜しまん心**があった。

ヘタクソでもええ、愛情込めて作ることに意味がある。それをカタログで選ぶだけの作業に変えてしもて、ほんまにええんか? 寂しすぎるやろ。

 

絆を繋ぐのは、スマホやなくて「食卓」や

関西の家庭にとって、おせちはお正月の「聖域」やった。 家族三世代が集まって、「今年の黒豆はええ艶やな」「このお煮しめ、おばあちゃんの味や」と笑い合う。あの空気感こそが、日本文化の背骨やったと思う。

ワタシらの世代は、おせち作りが年末の一大イベントやった。近所からお醤油のええ匂いが漂ってきてな、みんなで助け合って、新年を迎える準備をする。あの価値観が失われつつあるのを思うと、胸が締め付けられる思いや。


スマホをポチっで名店のおせちが届く、せやけど何かが足らん気ぃするなぁ?

効率を求める現代社会を否定はせん。でも、ほんまに大切なもんは、手間をかけてでも残していくべきや。

ワタシらの代でこの文化が消えてしもたら、未来の子供らは何を食べるんや? 工場で作られた、誰が作ったかもわからん「空っぽの食卓」を囲むんか。それは、あまりにも悲しすぎる。

 

80代最後の「叫び」を聞いてくれ

はっきり言うわ。おせちという伝統的な家庭料理の「終活」は、もう始まってしもてる。 でもな、ワタシはそれを受け入れたくない。なんとか次へ繋いでいかなあかん。

手間をかけることは、面倒なことやない。「ええ結果」と「深い絆」を生むための、尊い儀式なんや。 料理には愛情がこもる。

 

その愛情を通じて、世代を超えた会話が生まれる。年に一度、手作りのおせちを囲むことで、家庭の歴史を伝えてほしい。それが、日本の食文化を守る、たった一つの道やと思うねん。

 

最後に、これだけは言わせてや

結局な、おせちっちゅうのは「家族の絆」そのものなんや。 若い人たちよ、便利やからって、この味わい深い伝統を簡単に捨てんといてくれ。大切なものは、自分の手で作り、味わい、分かち合うことからしか生まれへんのやで。

……と、ここまでワタシが熱ぅ語っとるのにや。 隣を見れば、「そんな難しい話きいてるヒマあったら、電話一本で名店のおせち届くやん」やて。

冷蔵おせちと冷凍おせち、どっちが鮮度ええか検討するのが先や」やて!?

「ええ加減にしてんか! 肝心なのはそこちゃうやろ!」

 


2025/12/22

 

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